東京駅、夜8時、4番線ホーム。内回りの山手線から吐き出されていく人々。それぞれに帰る場所がある。
?「自分が情けない。私がこんなに落ち込むなんて」
ダイアン・フォン・ファステンバーグの幾何学模様のワンピースに、セルジオロッシのパンプス。サンローランのバッグを持つ都会のOL・美帆子は目線に影を抱えてホームの階段を降りる。
仕事の勝負に負けた。ただそれだけのことで、プライドがズタズタだ。顎の長さまである前髪が、もの哀しげに視線にかかる。
「このまま帰れない」
どこか寄り道したい気分だった。落ち込んだ気持ちを家に持って帰りたくない。かといって、友達を誘う気にもならない。でも誰かといたい。よくわからない感情をぶら下げて、人混みを縫うように八重洲地下改札を出た。
「これが飲みたい気分ってやつか」
改札そばのバルに入った。
◆頬杖をつく女
美帆子に酒を飲む習慣はない。付き合いで飲む程度だ。いつも終電近くまで働き、最近は会社と家の往復だった美帆子は、プライベートな時間を取れないでいた。
店はそこそこ混んでいる。ほとんどがスーツを着たサラリーマンで、出張帰りと思しき者や、パソコンをひらく者もいる。狭い店なので、グループ客は少なく、一人客が多い。美帆子はカウンターに座り、ヒューガルテンとオリーブを頼んだ。
一人飲みをする女なんて、信じられなかった。
そんなことをするのは、女を捨てた女や男を漁る女、スカした大人ぶる女くらいなのだろうと。今日美帆子は、そのうちのひとりになっているのを少し恥じた。
一人で来ている女もいた。カウンターでほおずえをついてぼんやりしている。
「この女の人も飲みたい気分なんだろうか」
店のテレビでは、どこかの大臣が不祥事で辞任するというニュースが無音で流れる。スピーカーからは、ジャズ調にアレンジしたマイケル・ジャクソンの「ビリージーン」が、雰囲気をしゃれた感じにさせていた。
ヒューガルデンのボトルとグラスが運ばれてきた。グラスに、白みがかったビールを注ぎ、会社で言われた一言一言を飲み干す。
「こんなに落ち込むなんて、本当に情けない・・・」
グラスの中に細かく立ち上る泡を見つめる。スマホには通知が何件か来ている。今日は誰の名前も見たくないと、電源を切った。
こんなとき、結婚している女は自宅に帰って夫の胸に甘えるのだろうか。独身の私には、帰っても誰もいない。甘えたメールを送る男もいない。ひとり身は楽しいが、それを謳歌する自分を恨んだりするのだった。
さっきの女の一人客には連れが来たようだ。なんだ、待ち合わせだったのか。
「こんな時間にふてくされてほおずえついて、女がひとりで飲んでるのは私だけね」
◆ロレックスの男
ビールがすすみ、気がついたらオリーブだけで3本のビールを飲み干していた。ヒューガルデン、シメイブルー、ベックス・・・。色の違うボトルをテーブルに並べていった。
空きっ腹に飲んだので、感覚がぼんやりしてきた。さっきまでの嫌な気持ちも溶けていく。嫌な後味がシミのように残る。
ため息をつくと、隣にいた男が声をかけてきた。
「そりゃ女子の飲み方じゃないな」
はっとして視線を向けると、年上の男が一人座っていた。頬がふっくらし、目が大きく、くちびるの薄い童顔の男だった。
白シャツの上に何気なく羽織るジャケットは、ボタンが外され内側からドーメルの四角いタグがちらっと見えた。少し疲れたネクタイは緩められ、左手にはロレックスの腕時計が鈍く光る。
(ナンパか・・・)
いつもはナンパを断わるが、今日は拒否をしない。男の顔に、ナンパ男が持つ独特の下心が浮かんでいなかったからだ。
事情を知らない男に、何もかも全て話したくなった。
「ねえ、いままで自分が情けなくなったことがある?」
「あるよ」
男はKENTを器用にくわえて火をつけた。煙が細く登っていく。
話し相手が欲しかった自分を確かめるように、店の雑音の中で、美帆子の方から今日の出来事を話し出した。
さらさらと砂時計のように愚痴を言う美帆子。男は黙々と、やさしい小雨が降るように、相槌を打ち、小石を並べるようにアドバイスをした。
いつも勝気な美帆子は、男に愚痴ることはしない。男のアドバイスはつっぱねる。男に頼ったら負けだとさえ思っている。
しかし今日は違う。男のアドバイスは居心地がよかった。心のドアが開き、柔らかな光と絹のような風が入ってくるように、男の話を受け入れた。
男から名刺をもらった。大手広告代理店の社名が書いてある。エリート社員の集まりで、年収も高く、勝ち組と言われている連中だ。
エリートに似つかわしくない、のんびりと平凡な雰囲気を纏う。それが美帆子を安心させた。
美帆子は、乾いた大地に水が染み入っていくように、心がしっとりしていくのを感じた。
「このまま帰れない」
◆エピローグ
1年後、2人は入籍した。まさかバルで出会って結婚するなんて、自分でもびっくりしている。
縁とは、男と女、時間、場所が織り合わさって、舞台を作り上げる。普段は心の扉を固く閉める女も、あの日のように、非日常の空間では、扉が開く時がある。見ず知らずの男が開けるのだ。
【シリーズ記事】
連載:東京恋愛区
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