<前回のあらすじ>パリに移住し、アパレル業界で活躍するデザイナーのさとみ。パリコレデビューを前に一時帰国。久しぶりの表参道で声をかけられた。振り向くとそこにはKENJIが立っていた。
◆再会
夕暮れをバックに佇むKENJI。風貌が以前とはガラリと変わっていた。白髪混じりの髪を後ろになでつけ、無造作に伸ばした髭。48歳であるはずのKENJIは、60歳間近の初老男性に見えた。
声をかけられなければ、気づかずに通り過ぎてしまうほど変貌していた。しかし、さとみは声だけでKENJIと認識した。
浮き沈みの激しいアパレル業界。第一線で活躍し続けるのはむずかしい。それは今のさとみが誰よりも知っている。光の強さが強いほど、影は色濃く落ちるもの。今日成功したとしても、明日は分からない。
業界から退いたKENJIは、かつての獅子のような情熱的なオーラが剥がれ、人生の苦労を噛み締めて、日々あるがままに浮遊しているようだ。しかし、やさしい瞳は変わっていない。
見つめあう二人。戸惑い、驚き、そして初恋のような甘酸っぱい感情にさとみはたじろいだ。しかし濡れた瞳はしっかりとKENJIの姿を映し、同時に、張り詰めていたものが一気に開放されていくのを全身で感じた。
◆10年の時を越えて
?二人はもう一度、思い出のカフェ・ラグナヴェールに向かった。出会った日からちょうど10年。その月日を撫でるように、コーヒーを挟んで向かい合う。カフェでの1時間が、10年以上もの価値があった。二人の間を埋める、シルクのようなやさしい時間だった。
35歳になったさとみ。デザイナーとしてキャリアを確立しながらも、全身に絡まる不安という名の鎖を振り切るように、生きていた。仕事仲間も家族も友人も、誰もさとみの気持ちを分かってくれる人はいない。
付き合っていた頃、同じようなことをKENJIがつぶやいたのを覚えている。その頃の自分は、彼の孤独は分からなかった。それが今なら染み入るように分かる。
彼も同じものを見てきたはずだ。ステージの閃光、人々の賞賛、夜の孤独、心の渇き。今のさとみの枯れた気持ちも理解してくれるはずだ。
そう感じてさとみは安堵した。付き合っている時には感じたことのない、安らぎがそこにあった。
「恋人って何だろう?」
さとみは聞こえないようにつぶやいた。ただ一緒にいたいだけが恋人じゃない。心の隙間がパズルのようにぴったりとはまるような、離れていても存在を感じるような関係......。さとみはここまで考えてやめた。無意味な行為に思えたからだ。
KENJIの黒い瞳、それが、ただ、さとみを癒す。心の細胞一つ一つをしみじみと潤し、渇いた寂しさが嘘のように取り払われた。
◆幸せの右頬
カフェにはラグナヴェール青山という結婚式場が併設されている。高さ12mから滝が流れる開放的なチャペルに二人は向かった。
誰もいない式場。静寂な水の音だけが二人を包む。さとみはやさしい空気に包まれなら、KENJIにプロポーズをした。
欲しかった安らぎ。自分を理解してくれる人が目の前にいる。さとみは力が抜けて、幸せの右頬に指を触れた。
?10年の月日が流れたが、この空間のみが二人の本当の姿をみていたのであろう。さとみはKENJIの腕の中で、いつまでも水の音を聞いていた。
◆エピローグ
あれから半年。さとみはモルディブに向かう飛行機に乗っていた。
窓から見下ろす先には、綿菓子のような白い雲が浮かび、向こうまで青々と広がる海に飛行機は小さな影を映し出す。
さとみの隣りに座るのは、左の薬指におそろいの指輪をはめたKENJIだ。
頂点を極めた男と女。そしてハイレベルな孤独を知る二人。パリコレは人生のハイライトだったのだろうか。
「この先、私たちが手に入れるものは何?」
幸せという安息を味わいながら、さとみはぼんやりと海を見つめていた。(終)