<前回のあらすじ>ひょんなことから、師匠である世界的デザイナーKENJIと交際していたさとみ。しかし時が流れ、マンネリを感じた二人は破局を迎えることとなった。
◆パリへ
KENJIと別れてから、さとみはパリへ立った。恋人との別れが仕事の転機。女にはよくあることだ。
さとみはKENJIの会社を去り、パリでオートクチュールのブランドを立ち上げた。それまで大切に宝物のように体にまとっていたKENJIの教え、マナー、流儀、しきたり。何もかも脱ぎ捨てて、さとみはパリという新しいジャケットを着た。
さとみはパリでキャリアをうんと伸ばした。アトリエ、コレクション、せわしなく動くバックステージ、カメラの閃光……。あれだけ憧れていた世界がさとみの日常の風景になっている。人生とは不思議なものだとさとみはつくづく思う。
一方、KENJI-PARISは新しいデザインに苦しみ、業界から淘汰されていった。KENJI自身もアパレル業界から一線を引いたと、スペイン人のエディターから聞いた。
あれだけみんなが口にしていた名前でも、今やそのかけらも聞くこともない。この業界では珍しいことではない。この話はさとみの耳を刺激することなく通り過ぎて、盛者必衰のサイクルは踊り続ける。
◆成功への足音
さとみはパリでとても華やかな時間を過ごした。いろいろな国も訪れた。惚れこんだパリのモンマルトルの景色、東欧の哀愁が美しいプラハの景色、独裁の悲しみと絶望が影に隠れるブカレストの景色、貧しく厳しい冬にしずかな情熱が隠れるモスクワの景色。さとみはヨーロッパの顔を写真に収め、シフォンドレスに淡くプリントした。それらは、さとみの名刺代わりのシリーズとなった。
2015年秋、パリでは同時多発テロがあった。エッフェル塔の明かりが消され、目を閉じた街。恐怖と悲しみをルームメイトのサラと抱き合い慰め合った。デザイナー仲間と追悼の意を込めて作品を発表し続けた。
さとみは業界ではすでに、世界を代表する若手デザイナーと認識されている。そして2016年があけ31歳になったさとみは、パリコレデビューが決定した。
デビューが決まった日、さとみはそれほど興奮しなかった。遅かれ早かれ実現するのは、どこかでわかっていたのだ。仕事仲間たちには最高の喜びを演じてみる。もちろん嬉しいことだ。しかし、さとみは変に冷めていた。
これから準備で怒涛の日々を送るのだろう。自分の名前は、大きく世界に知られることになる。私の運命が大きく変わっていくはずだ。
私は成功した。別にそれ以下でもそれ以上でもない。深い水のような冷静な目で、窓の外を見つめた。
◆再び、表参道
さとみはコレクション準備の前に、日本でバケーションを取ることにした。久しぶりに日本に戻って成田空港に着いた。ヨーロッパのにおいとは違う、懐かしく、まとわりつくような日本の空気を、胸いっぱいに吸った。
コーヒーの香りが鼻をくすぐったとき、ふとKENJIのことを思い出した。懐かしい気持ちになり、空港から成田エクスプレスに乗り、渋谷へ。そこから地下鉄で表参道に向かっていた。地下鉄の中づり広告で、さとみが学生時代に熱を上げた国民的アイドルの解散騒動を知った。
久しぶりに踏みしめた表参道のアスファルト。さとみはサングラスを少しずらして、街の色を見る。みゆき通りに通ったあの青春の日々。当時はあこがれのブランドショップばかりだったが、もはやそこから刺激を受けることはなくなっていた。
ファッションは自分の人生だった。しかしあんなに遠かったステージは、もう踏み慣れてしまっている。東京もパリもニューヨークもミラノも経験した。どこもただの一つの都市に過ぎない。
パリコレのチケットを手に入れてしまった以上、どこを目指せばいいのかわからない。それでも応えなければならない周りの期待。機械のようにデザインを生み出す日々。その先に何があるのだろう。
「迷わず行けよ、行けばわかるさ」KENJIはその言葉が好きだった。
みゆき通りを下り、カフェ・ラグナヴェールの入り口が見えた。白い壁、清楚な空間に導くような、石の階段はあの頃とちっとも変わらない。偶然KENJIと会ったあの日。あれがなければ今のさとみは存在しない。彼への感謝にふけりながら、懐かしむようにカフェに入った。
テラスのテーブルを指でなぞる。あの時と変わらないテーブルのぬくもり。花の香り。さとみの睫毛が影を作った。
「私は変わってしまったのかな。心を潤す新鮮な場所はあるのかな」
飛行機の中で聞いたスティーヴィー・ワンダーの「トゥー・フィール・ザ・ファイア」のサウンドが脳の周りをまわっている。「幸せそうに見えるかもれないけど、私の心は乾いている」という歌詞を自分と重ねた。さとみは、冷めた自分を1年ほど持て余している。
空を見上げた。冬の空は、夜になる準備を始めていた。風が冷たく、身体にしっとり這うようだ。さとみは、みゆき通りに出て、タクシーを止めようとした。その瞬間に、懐かしい声で呼び止められた。
そこには風貌変わったKENJIがたたずんでいた――。(続く)